結局人生は配られた手札の中から最適のカードを采配するしかない。
生まれた瞬間に手札がそれぞれに配られて、その中のカードでプレイすることしかできない。
それが全て切り札級のカードかもしれないし、はたまた貧弱な効果しか持たないカードかもしれない。
そんな理不尽の中であっても世の中には生まれてくる。
例えば、生まれた家庭が超大金持ち、そして容姿は整っている。
一方では超貧乏の家に生まれて、容姿はお世辞にも整っているとは言えないような人。
こんな格差が生まれた時点で大きく開いているのにも関わらず時間という概念は皆、等しく平等に与えられている。
これが神が唯一与えた平等の概念だとしたら、神なんてものはひどくむごたらしいことをしてくれるお方だ。
マラソンに例えてみよう。
不利な状況で生まれてしまった人はトラック上に落とし穴や、川が流れていたりする。
一方有利な状況で生まれた人は給水ポイント完備、トラック上は綺麗に整備されていて、足元には真っ白なシューズが輝いている。
生まれ落ちた環境によってこれくらいの差がでてきてしまった。
それでいても人生という名のレースは終わろうとはしないし、走り抜けなければならない。
どんだけ鬼畜なゲームなんだろうか。
自分が不利な状況側の人間だったとしよう。
隣のレーンでは颯爽と爽やかな笑顔で眩しい太陽をシャワーのように浴びながら、走り抜ける人がいる。
そんな奴らを尻目に自分は運命を呪いながら自分の道の悪いレーンを這いつくばってでも走らなければならない。
果たしてこの人は前世で何をしでかしたのだろうか。こうなってしまっては自分だけではなく自分の前世、魂までも呪ってしまいそうだ。
と、散々書いたがこれは全て言ってみれば当たり前のことだ。
誰もが知っていることだし、自覚して生きている。
自分が有利側の人間か不利側の人間か、その中間か。それとも人生に不利有利なんてつける考えが馬鹿らしいといった人間か。
色々いるだろう。
気付いたことがあって、この要素はとても重要なことに思える。
カードゲームだとしたならば、配られる内容は違えど、枚数は同じ。
マラソンだとしたならば、トラックの状況は違えど、ゴールの位置は同じということ。
同時にカードの強さを1枚ずつ競うゲームをしたならば手札が切れるタイミングは同じだ。
いくらトラックの状況に差があるとしてもゴールの位置までもは変わらない。
要するに、人間皆、目指すべき場所は1つしかないのだ。
これも人間に与えられた1つの平等だった。
これを知ると、なぜか心が晴れ渡る気分がした。